生涯
文化8年(1811年)1月4日に生まれた。
明治21年1月24日(1888年)78歳で生涯を終える。
名前
周政
幼少期は、正太郎、恒次郎、市蔵、27歳になると清水元周(清水家10代)から伝兵衛を名乗るように言われた。難波家が家督を継ぐと伝兵衛と名乗ることから元周が名乗ることを許したのだろう。
「周」の字も授かり、伝兵衛周政 と名乗っていた時期もある。贈位書には伝兵衛と記載されている。
最後に使用していたのが、教育者で南画家としての名、「覃庵」である。
※晩年は覃庵として過ごしていたため、本HPでも覃庵と記載します。
生涯
~長州藩士~
※覃庵は、清水家10代清水元周、11代清水親春、12代清水親知、13代清水親春(再家督) に仕え清水家のために生きた。
長州藩しとしての生涯を記載する。
文政元年(1818年) 熊毛郡光丘徳修館でに入る。
文政2年(1819年) 8歳で父を亡くしたため、優秀だった覃庵が家督を継いだ。
文政8年(1825年) 14歳のときに清水元周から、清水親春の相談役に抜擢される。
文政12年(1829年) 清水家の取次役(家老)の席が空いたため、18歳で就任する。
安政6(1859年) 59歳の時に、清水家が財政難になると私財を投げ打って樟脳製造所を作り利益を全て清水家の軍費用に当てた。
万延元年(1860年) 60歳の時に、親知が江戸に滞在していたので覃庵も江戸に滞在した。
文久2年(1862年) 桂小五郎が覃庵を叩き起こし、親知に坂下門外の変の濡れ衣を着せようとしていることを知らせる。
それを聞き覃庵は、訥庵の塾へ急ぎ磯村定之に親知の退塾を申し出た。嫌疑が完全に晴れる3月まで江戸に滞在した。
同年 毛利敬親からの命令により、周布政之助と同行したことも、親春や親知に同行し、京都、江戸など国事に翻弄した。
同年 自費で「養義場」という塾を邸宅内に作り、各地に散らばっている清水家の家臣を呼び集め鍛え直した。
来るべき日が近いことを覃庵は想定していたのだろう。
文久3年3月(1863年) 賀茂行幸で、清水親知が代表家老を務めた時にも覃庵はお供として参加している。
明治に覃庵が2代目の「向山文庫」を建てた時に、看板文字を三条実美が書いており、これは清水家とどれだけ朝廷が密であったのかを表していると思われる。
翌年慕義会を親春の命令で開き、塾を大きくした。
同年3月(1863年) 大和行幸を企てるも失敗に終わったため、周布政之助、親知などとともに鎮火するために方々に走り回った。
元治元年8月(1863年) 鎮火の努力も虚しく、禁門の変が起こってしまい。起こした責任を負い周布政之助が自宅で自刃すると、親知が窮地に追い込まれ更迭させられてしまう。
元治元年12月(1863年) 親知に自刃の命令が降ると、自身も先祖伝兵衛に習いともに自刃と申し出たが、親知に今後を託され親知の思いを引き継いだ。
慶應2年(1866年) 第二次長州征伐 突入。長州では四境戦争とも言う。大島口の戦いで親春が第二奇兵隊の総督を務め、覃庵が参謀を務め勝利を納める。大島口で幕府が負けたことにより一気に討幕へ風が吹いた。
大島口の戦いで覃庵の記録によると、覃庵は夜叉であった。別のページを作成し紹介する予定。
覃庵は、討幕を果たし明治維新が終わると刀を置き、家老としての勤めを終え国事から遠のいた。
死後
1912年、宮内庁より正五位を追贈される。
これを受け、伊藤博文から顕彰碑を贈られる。
参考文献
『三十一豪傑列伝 : 殺気満紙』2,近藤音次郎[ほか],明19.4. 国立国会図書館デジタルコレクション リンク
光市史
覃庵の履歴書下書(個人所有)
天皇暗殺』図書出版
贈位諸賢伝. 国友社. (1927)