生まれ
天保14年(1843年)6月9日に分家(月清入道の子孫)に生まれた。
優秀であったため、本家清水親春の養子にり12代を継いだ。
名前
通称、清太郎。古文書やその他文献には清水清太郎と記載されていることが多い。
親知の「親」の文字は、毛利敬親 から授かったもので、毛利家からの信頼の厚さを表している。
生涯
安政4年(1857年)親知14歳、 大橋訥庵の塾に入った。
大橋訥庵は幕末期の儒者であり,特に「王政復古」と外国を排除する「攘夷論」を唱えた人物。
この訥庵に、攘夷論を学び影響を受けたと言われている。
親知は、1年で日本の情勢を理解し、幕府の行末を見たといわれているほどに優秀であった。
伊藤俊輔(後の伊藤博文)と親交が深かった親知は、伊藤俊輔を訥庵の塾に誘いともに学んだ。
俊輔は、その優秀さに感動したことを周りに伝えている。
文久元年(1861年)18歳になると、大橋訥庵の塾でも優秀さを発揮し師事することもあった。
文久2年1月15日(1862年2月13日)坂下門外の変を訥庵が起こす。
文久3年(1863年) 親知は、京都学習院御用掛けに選ばれる。京都学習院御用掛けとは朝廷、幕府、諸藩の間に入り調整役を務めること。
親知は、家老難波覃庵に支えられながら、同じ学習院御用掛けに就任している桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞とともに尊王攘夷を果たすべく務めた。
同年3月(1863年)孝明天皇は、攘夷の祈願として賀茂行幸、石清水行幸を執り行う。幕府の許可なく御所から天皇が出るのは237年ぶりの行事であった。
この行事の調整を長州の学習院御用掛けが執り行った。
清水家家老難波覃庵が、私設図書館向山文庫を明治に立て直した時に、
三条実美が
看板の文字を書いている。賀茂行幸で調整を執り行っていた時に厚い信頼を築いた証拠ではないだろうか。
賀茂行幸、石清水行幸では親知が長州藩の代表家老勤め、桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞などを従えて参加している。
同年8月(1863年)藩制改革後、親知は22歳で国元加判役(長州藩の代表家老)に就任した。
大和行幸の詔が発せられたが、本来詔は天皇が発するものであるが孝明天皇が知らないところで発せられたことが発覚したため、孝明天皇が中止を言い渡した。
このことに関わった七侯と長州は京都から追い出されてしまう。周布間之助、親知、覃庵、高杉晋作は、火消しに走ったが、イケイケの長州藩士を止める術がなかった。
朝廷、幕府から目をつけられた長州は、天皇の御所を誤って銃撃してしまい、禁門の変を起こしてしまう。
このことから天皇に敵とみなされ、第一次長州征伐に発展する。
国司親相、益田親施、福原元僴が切腹してことをおさめた。しかし、長州藩の中でも派閥争いがあり保守的な派閥である俗論派が、親知をとらえ正義派に所属していた親知を人質にし見せしめにした。
そのような中でも、高杉晋作は功山寺で決起してしまう。
親知は、禁門の変の責任と称した報復を受け自刃させられる。家老難波覃庵がともに自刃するといって聞かなかったため、親知に直接説得され託され清水家の未来を、親知に代わり全うした。
その他一緒に国事に関わっていた弟宣次郎や家臣に迷惑がかからないように「自分には家臣はいない」と言い残し淡々と取り行った。
辞世の句
古道照顔色
自分を励ます言葉である。
坂下門外の変 覃庵の履歴書より
この日の深夜、難波覃庵は桂小五郎に叩き起こされた。「訥庵が坂下門外の変を企てており、親知に濡れ衣を着せようとしている。
嫌疑がかかる!」と言われ覃庵は飛び出し、明け方には親知を退塾させた。
死後
山口県光市にある正義霊社に、遠祖宗治の神霊とともに、親知の神霊が祀られている。
宗治の100年祭の時に、「正義霊社」という名前がついているため、親知の派閥名とは関係がない。
参考文献
『三十一豪傑列伝 : 殺気満紙』2,近藤音次郎[ほか],明19.4. 国立国会図書館デジタルコレクション リンク
臨終の書 山口県文書館古文書
覃庵の履歴書下書(個人所有)