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備中高松城主清水宗治は、兄の月清入道、弟の難波伝兵衛とともに毛利家のため、 家臣のために命を潔く差し出した。宗治は家臣に生きることを望んだが、後を追うものが後を絶たなかった。
天文6年(1537年) 備中国賀陽郡清水村に生まれ 天正10年6月4日(1582年6月23日) 備中高松城にて自刃 難波経遠の子孫であるが、本家を継いでいないため宗治の父宗則が清水村出身であったことから清水と名乗るようになった。
備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城主を務めた。 毛利家の家臣で忠誠を誓い、小早川隆景に支えた。 宗治は、毛利家の砦である備中国の守りを任されるほどの武将であった。 天正10年 織田信長の命令により、羽柴秀吉が毛利家を攻めた。 ところが、備中高松城は沼地で本陣にたどり着くのに足を取られなかなかうまく攻められなかった。 しかし、黒田官兵衛が土地の特殊性から水攻めを考案し、奇策とまで言われた。水攻めは兵糧攻めの 一種で、清潔な飲み水は絶たれ食料の確保もできなくなる。兵士は飢え日に日に弱っていく残酷な攻め方だ。 籠城する宗治に、秀吉は2カ国を与えるから降伏して自分にと誘うが、毛利以外あり得ないとしてその申し出を突っぱねた。 毛利元就も、宗治を諦めていなかった。宗治のために5カ国を渡すから命を助けてほしいと申し出た。 しかし、織田信長の性格を熟知していた秀吉は、宗治が切腹しないと毛利家との全面戦争以外になくなることを察していたため、 宗治は切腹以外なしと言い切ったため交渉は成立しなかった。 毛利の軍勢には知らせずに、秀吉は備中高松城に船を出し、宗治に切腹すれば家臣を助けると直接交渉した。 それを聞いた宗治は秀吉に家臣の命を約束させ、切腹に応じ和議が成立した。 自刃前夜、羽柴秀吉から酒や食料の差し入れがあり、宗治と酒を酌み交わしたという逸話がある。 それ以外に、城内を清掃し身なりを整え、すべてのものに感謝してから切腹に挑んだ。 宗治は信頼の厚い殿様だったため、供に自刃をと申し出る家臣が後をたたなかった。供を許したのは兄「月清入道」、弟「難波伝兵衛」、 そして毛利家の代表として「末近信賀」に自刃をお願いをした。あとの家臣には二代を支えるように言い残した。 ※難波伝兵衛宗忠に関しては諸説あり、船上で自刃した説、見届けてから城内で後を追た説がある。 景治に遺言を残し、その遺言が清水家の家訓になっている。遺言は、山口県光市に帰宅されている。 自刃当日は、小舟で、秀吉の前まで行き、舞を舞い辞世の句を残し自刃した。 殿が苦しまないように介錯人をつけたこの自刃のスタイルが、切腹の作法になったとも言われている。 この立派な切腹に秀吉は、感銘を受け誰にでも切腹を言い渡すようになったと言われている。 宗治の兜、直筆の書などは山口県光市文化センターに寄託されており、兜は常設コーナで見ることができる。 大正13年(1924年)2月11日、宮内省より「従四位」を授与した。
備中高松城水攻史蹟案内記 高田馬治 文部省史蹟保存指定 贈位諸賢伝
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