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月清入道げっしょうにゅうどうは清水家の長男として生まれ、名は宗知むねとも。出家して弟宗治に家督を譲った。弟伝兵衛は、 祖父が難波経遠の名を継いでおり、本家ではないが伝兵衛もその名を使用することにした。
清水宗則の長男として生まれた。しかし、体が弱かったため家督を弟に譲り出家した。 以後「月清入道げっしょうにゅどう」と名乗る。 猛将としても知られており、宗治の右腕として支えた。 備中高松城の水攻めで敗れたとき、宗治の首が家臣を助ける条件とされたときに、月清入道は進んで自刃を申し出た。 「体が弱かったがために清水家の家督を押し付けるかたちになってしまった。今回ばかりは宗治一人に押し付ける訳にはいかない。」と言い自刃に臨んだと言われている。
「世の間の惜るる時散りてこそ花も花なれ色も有けれ」 訳:或日花も花なれ人も人なり
清水宗則の三男として生まれた。元々、父清水宗則は難波を名乗っていたため、伝兵衛は難波の名を残すために難波の姓を継いだと言われている。 武将としての腕前は確かなものだったとも言われている。 兄宗治の家老を勤め、清水家を支えた。 宗治の六男田右衛門宗定でんうえもんむねさだが、難波家の養子に入り難波家を継いだ。 清水家に何かがあっても、難波家が残れば清水宗治の血が残せると考えたのだろう。 清水家と難波家はには度々、存続の危機に晒されたことがあったが清水家から養子を、難波家から養子をと家を繋いで現代まで続いた。 殿と家老の関係が幕末まで続き、縁は現代まで繋がっている。 難波家は、家督を継ぐと初代伝兵衛の名を名乗ることが許された。 兄二人とともに、小舟に乗り自刃したのだが、辞世の句が今現在は発見できない。 もし、11代目難波伝兵衛の史料の中から出てきたら紹介したいと思う。
備中高松城水攻史蹟案内記 高田馬治 文部省史蹟保存指定 国会図書館link (参照 2023-05-20) 村上元三 著『加藤清正』第2 (手がら者の巻),東京文芸社,1958 国会図書館link(参照 2023-05-20)
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